げに恐ろしきは……

あるアパートで、一人暮らしの五十代の男が倒れて救急車で運ばれた。
第一発見者は隣人の女で、大家と踏み入った男の部屋で積み上げられていた本が妙に気になった。
気になって積み上げられたうちの一冊を手にとって見たら、文庫本だった。
文庫本が、70冊あった(数えた)。



「お宅の本がね、あったんですよ、ななじゅっさつくらい」

女は電話を掛けた。
受話器の向こうでは女に馴染みの図書館の馴染みのない若い司書が曖昧に「はあ…」とか「えっとそれは…ちょっとお待ちくださいね」とか言いながらパソコン端末をたたいて男のデータを取り出していた。
若い司書、彼女の取り出したデータのなかの男の住所は女の住む住所ではなかったが

「名前も年令も合っているようですし、その方は四年前に図書カードを作ってから引っ越したのではないのでしょうか。」

彼女がそういうのでたぶん男に間違いないのだろうということで話はとりあえず進む。

「貸し出し状況を調べてみてほしいのよ、いくらなんでも期間内に七十冊は読み切れないと思うのよ。延滞してるんじゃないかしら」
「えーと、その方、本は借りてませんねカードを作ってから一冊も。ただ、ビデオを一本、2001年からずっと延滞してます」

にせんいちねんからずっと、のところにちょっと力を込めて司書が言う。

「あら、じゃあやっぱりこれアレかしら、勝手に持ってきちゃってたってこと?」
「貸し出しミスってことも無いことはないんですけど、七十冊っていうのはちょっと、考えられないんでその可能性もあるかもなんですけど…」

まあ時間をかけてちょっとずつパクってたんでしょうなあ、と司書はすごくすごく思ったし言いたかったけれど言葉は濁した。
サービス業なので、というか仕事中なので言わなかった。

「私、お宅にこれ全部持っていってもいいかしら。本人意識不明なのよ、今。
本が無いとお宅にご迷惑だから、持っていくわ」
「なんなら延滞してるビデオも探すわ」
「私、図書館が好きでよく利用してるから、こういうの駄目だと思う」

受話器が熱い。
司書はメモ用紙に今まで女から聞いたことを書き留めながら紙の端にぐりぐりと丸を書いてボールペンの尻で頭を掻いた。

「返却されてない不明扱いの本が帰ってくるのはありがたいんですけど、一応本人の意識が戻らないとなんとも…」
「ビデオも早く返していただきたいので、あるのであれば…はあ見つかるとありがたいんですけど…(探すとか言ってるけどこの人内縁の妻かなんかなのかなあ、どこまで踏み込んで聞いていいのかなあ)」
「とりあえず上に説明して聞いてみますのでお電話番号、教えていただけますか」

女は、なんだかめんどくさくなった。

「電話持ってないのよ。やっぱり私伺います、明後日あたりあなた出勤?名前は?」
「午後から出勤の予定です、わたくしはぎこと申します。」
「じゃあ明後日あなた呼ぶわ、たらい回しにされて何度も説明したくないから」「上には報告しておきますので、お越し頂きましたら上司も交えてどうするか相談になるかと思います」



じゃあそういうことで、と女が電話を切ったのが一昨日の話で
午後だっつったのに午前中に女性は来て、係長とまんさんが病院に見舞いにきてた男性の姉に承諾を得て念書を書いてもらって部屋に入って75冊の文庫本を受け取って来たということがあったのでした。
結局男性は姉につれられて田舎に帰るのだそうです。

まだ意識は戻らないのだそうです。

文庫本の大半が池波正太郎作品だったそうです。


「しょうがない、どうしようもない奴はいるんだよなあ」
とまんさんがぼそっと言って
夕方になって早番が遅番とカウンター当番を交換した帰りぎわにまた
「はぎこ、帰りは真っ暗だから気を付けて帰れよ、襲われないようにな」
と言うのでなんとなく不穏なものを内に抱いていたら



老婆が立っていた。
真っ青なウインドブレーカーを着た老婆がぶつぶつつぶやきながらこちらを睨んでいた。

「本を返却したあとまた借りるんですね?」
と聞く年配の女性司書に老婆は貸し出しカードを投げ付けるように机に叩きつけると


「人殺し、………ない」


「人殺し、………ない」
「人殺し、………ない」
「人殺し、………ない」
「人殺し、………ない」
「人殺し、………ない」


目玉を飛び出しそうな程見開いたままの老婆の口から呪文のように繰り返されるそれは「ひとごろし」だけが妙に強く聞こえて
まるで詰られているような、攻められているような不気味な光景だった。


「貸し出しは十二月九日までになります」

そして、怯える女性司書から本を奪うように引ったくった老婆はこっちを睨み付けたまま


「おまえたちが図書館を焦がすんだ!本を、焦がす!」

と叫んで走り去った。



「うあー、何、今の超恐かったですねー!」
「あのひとずっとぶつぶつ言ってたのよね…」
「人殺し、とか言ってましたよね」



「人殺し、みんなでやれば恐くない………って言ってたのよあの人ずっと」




きゃー。



ほんと、すげーこわかったです。